新説・日本書紀㉓ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)12月8日 土曜日
358年冬10月に、群臣は神功を尊び皇太后といい、摂政元年とした。だが、書紀はこの年を「辛巳」としている。381年に当たる。書紀年代のはなはだしい矛盾である。 383年春正月、「誉田別皇子を立てて、皇太子としたまふ。因りて磐余に都つくる。是をば若桜宮といふ」とある。「誉田別」には注意を要する。神功の子(応神)は「分家の皇子」である。また、若桜宮は田川市川宮にある「若咲神社」と思われる。元宮は若咲橋のたもとにあった。奇妙なことに、鳥取県若桜町は履中紀の「若桜宮」に由来するとあるから、あるいは田川の若咲神社こそ神功皇后の若桜宮ではなかったかと推測される。また、西鉄バスの若咲神社停留所の所に、「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑が建っている。 書紀の記事と筑豊の伝承を擦り合わせると、次のようになる。
⑥381年、誉田別皇太子が天皇に即位し、神功は皇太后となる。
⑦383年、誉田別天皇(応神)磐余若桜宮(田川市川宮)に遷宮。
書紀によれば、神功皇后の記事は神功13年ですべて終わる。神功皇后の薨去についてはこう記す。「69年夏4月、皇太后、稚桜宮に崩ず。冬10月、狭城盾列陵に葬る。この歳己丑(389年)。」 4世紀に西日本を駆け巡った女帝も豊国に眠ったようだ。田川市見立にある大きな前方後円形地形が神功の陵ではないだろうか。 応神天皇は2人いた
戦後史学は神功皇后までを架空とし、15代応神天皇からが実在としてきた。また、応神は戦後の教科書に大書された「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」のうちの讃に当たるとされてきた。だが、この点に関して、重大な疑問がある。 さらに、『松野連系図』によれば、「讃」の親が「縢」となっていて、「倭の五王」の祖が武内宿祢(藤大臣)と思われ、久留米市の高良大社の奥宮は彼の墓所とまで言われている。 つまり、九州の東半分に神功の豊国王朝が成立し、西半分に武内宿祢の創始した筑紫国王朝が成立したのではないかと思われる。 次の世代が、筑紫王朝の誉田天皇(倭王讃)と豊国王朝の誉田別天皇とであり、2人の応神天皇が九州の西東に在位したと考えられる。 次回は22日に掲載予定です
「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑。この池の東南に「若咲神社」があった
「松野連系図」の部分。縢・讃・珍・済と続く